古書&アート作品

柄澤斎
『掌宇宙:Ⅲ玩具』

(1983、シロタ画廊、函、限定70部、版画5葉(各台紙11cm x 8cm)、署名)



9万円

「・・・二十世紀を代表する二人の木口木版作家を挙げるならば、その一人はオランダのM・C・エッシャーであり、もう一人はアメリカのレオナード・バスキンである。エッシャーは幾何学的で不思議な世界の計量によって、バスキンは疎外された人間像への悲痛な共感によって、木口木版画の新しい両極を切り開いた。この両極とは宇宙と人間の内面への眼差しであり、虚構と実証との、版画本来の二面性にほかならない。 日本を含めた現代の木口木版によって、歴史に付け加えるべきいくばくの表現が残されているかは、これからの課題と言わなければならないが、先の二人によって示された宇宙と人間の内面、つまりは最も遠いものと »続きを読む

前田静秋
『のくちゆるぬ』

1959、プレス・ビブリオマーヌ、宮下登喜雄銅版画5葉、両者署名、総皮装、函(背少焼け)、限定200部内家蔵別装本5部
5万5千円

NOCTURNE—an einer frau—   繊月 クリスマスの夜更 ヒマラヤ杉 の影絵に 北方の空がいやにあかるい ――粉雪(ゆき)のふりやんだ 下界   そのとき おまえは 白衣をまとって 愁うるとなく 薄青い眸をあげ どこ かしらない 夜の彼方をうかがうのだ   ピエロオの踊りはやまず 消えがてに うたごえつづき そして わたしたち はなにをかたつたのだろう・・・   いつか年老いている 銀の髪 さらさ らと風に鳴り いろいろなふしあわせ と みえない夢のはなばな ものがた ることは もの倦いこと »続きを読む

ジョルジョ・アガンベン
『瀆神』

2005、月曜社、初、カバー、帯、上村忠男・堤康徳訳、139P
1,500円

「・・・あらゆる権力の装置はつねに両義的である。それは、一方では、主体化の個人的ふるまいから生じ、他方では、分離された領域へのその捕獲から生じる。個人的なふるまいは、それ自体では、しばしば、非難されるべきものをなんらもっておらず、それどころか、解放的な意図を表現しうる。非難されるべきは、もしかすると―状況や力に強制されたのでない場合には―装置に捕獲されてしまったことだけかもしれない。ポルノスターの破廉恥な身振りも、ファッションモデルの無感動な顔も、そのようなものとしては、とがめられるべきものではない。逆に、恥ずべきは―政治的かつ倫理的にダッシュそれらをそれらの可能な使用から »続きを読む

寺山修司
『はだしの恋唄』

1957年、的場書房、装丁:伊達得夫、署名・カット、78P

18万円

“はだしの恋唄”、“墜ちた天使”、“他人の空”、“泥棒の歌”、“火について”、処女作『われに五月を』刊行後の散文詩集。 恋をするのは忘れること 小鳥や 家や あなたを忘れること 忘れなければ 歌はない わたしの歌が わたしの明日よ 「・・・この本の作品たちもとうとう僕には充ちたりたものを僕に与えてはくれなかった。シュペルヴェイルみたいに<この貝殻でもなかった>と僕はそれを海へ投げすてて次の貝殻をさがしに行くだろう。 はだしで、麦藁帽子をかむって。」(「僕のノート」より)

安斎重男
『オマージュ: イサム・ノグチ』

1992年、19cm x 29cm、サイン有り
00円 (在庫なし)

イサム・ノグチさんのこと Isamu Noguchi 「私がイサムさんと初めて会ったのは、73年の日本橋にあった南画廊での個展の時でした。そのあと、あちこちで少しずつ会いましたが、85年、ニューヨークに滞在中『アート・フォーラム』という雑誌から、ロング・アイランドに出来て間もないイサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアムのフォト・エッセイを頼まれたんです。 早速イサムさんに電話でOKをもらい、機材を運び込んだわけです。このミュージアムは、どう並べたら作品のコンセプトがよく見えるか、イサムさん自身の手で、永い時間をかけて陳列されたと »続きを読む