古書&アート作品

江藤文夫
『みる雑誌 する雑誌――平凡文化の発見性と創造性』

1966、平凡出版、カバー(少痛み)、本体少経年焼け、非売品、新書版、182P
2,500円

「講談社文化」と並ぶ戦後文化の双璧である「平凡文化」を論じる。 「・・・“総合的人間”像と言うと、少々大げさな言いかたになる。だが、“する雑誌”という場合に、新しい人間像の形成ということを無視して、これを語るとはできないように思われる。・・・“する雑誌”――平凡文化の“する”――は、従来“働く人間”の中に限定されがちだった“する人間”を、もっと生活全般にひろげていった。そのために、“専門家”“技術者”という枠、現代の職業がひとりひとりの人間に課していく枠組み、を超えて、そこに“アマチュア人間”ともいうべき、自由な生活人のイメージを創出していった。 そして平凡文化は、“職業生 »続きを読む

遠藤周作
『青い小さな葡萄』

1965、新潮社、初、カバー(少焼け)、帯(少焼け)、蔵書印あり、四六版、198P
00円 (在庫なし)

遠藤文学の初期世界にみられる西欧と日本との間の人種差別に起因するテーマを扱った長編小説。 「”・・・憐憫はたくさんです。そっとしといて下さい。ぼくらを探さないで下さい。 ムッシュウ・イアラ、君のノートの中にもそんな言葉がたくさん書いてありましたね。無記名の人間になりたい。カメラの位置をどこにも固定したくないですか。・・・なるほど、あれは黄色人でも白人でもない一人の人間になりたい君の気持ちでしょうね。笑いながらクロスヴスキーはその顔を近づけてきた。” 『青い小さな葡萄』はキリスト教の真実を真向うから問いつめようとした作品なのかもしれない。そもそも≪青い小さな葡萄≫とは何だろう »続きを読む

ミルチャ・エリアーデ
『聖と俗:宗教的なものの本質について』

1969、法政大学出版会、初、カバー、帯(少焼け)、小口少汚れ、風間敏夫訳、四六版、258P
2,000円

聖と俗なる世界の対比により宗教的人間のあり方を明らかにするエリアーデの代表的な書。 「古代社会の人間は、聖なるもののなかで、あるいは浄められた事物のすぐそばで生活しようと努める。この傾向はもっともなこととして理解される、というのも≪原始人≫およびすべて前近代的社会にとって、聖なるものは実有に充ちている。聖なる力は実在と永遠性と造成力とを同時に意味する。聖と俗との対照はしばしば現実と非現実あるいは偽の現実との対照として現れる。存在し、実在にあやかり、力に充ち満ちてあることを、宗教的人間が熱望する所以もこの故に理解される。」(序言より)

荻野恒一
『現存在分析』

1969、紀伊国屋書店、初、帯(少切れ)、新書版、202P
1,000円

現象学的方法で病者の志向性を捉える現存在分析とは?。 「現存在分析とは、人間についての学問の一つである。しかもこれは、一つの経験科学であって、哲学ではない。だが他方、経験科学とは、かならずしも自然科学を意味しない。いな、むしろ現存在分析は、自然科学に対応するような別種の経験科学である。 ではなぜ二十世紀の今日、自然科学と別種の経験科学が必要なのか。それは、人間には自然科学が解いてくれない側面があり、しかもこの側面を科学的に解明していくことは、今日きわめて現実的な課題だからである。 とすると、自然科学が解明してくれない人間の側面とはなにか。それは、人間だけに具わっている側面な »続きを読む

編集:小尾俊人
『回想・北野民夫』

1989、みすず書房、初、函(少キズ)、非売品、四六版、144P
4,000円

みすず書房創業に特別な役割を果たした北野民夫に捧げられた追悼集。 「“葱汁うまし逸話を持たで五十路過ぐ”の一句が故人にある。逸話なき人生を自覚していたこと、自己の人生を突き放してこう詠める人は達観しきっている。そして底に孤独に徹する凄さを秘めていなくては、この句は生れない。そもそも逸話とは他人の創作だ。第一逸話がつくられたも許される人は、ミケランジェロ、ベートーヴェン、アインシュタイン等々、一世紀に四、五人ぐらいしかいないのである。 ≪生涯現役≫≪企業戦士の壮烈な死≫と、よく言われた言葉があったが、北野民夫の七五年の生涯は、まさにこの言葉そのままであった。倉庫業、出版業、法 »続きを読む