古書&アート作品

ラングドン・ウォーナー
『推古彫刻』

1958、みすず書房、初、函、菊版、182P、寿岳文章訳、朝河貫一序
3,000円

米国の傑出した東洋美術史家であり、日米戦争を憂いた平和主義者による日本彫刻論。  「・・・芸術史上、推古と呼ばれる時代は、聖徳太子の叔母にあたる偉大な天皇の名に由来し、仏教の伝来から奈良遷都までの、発展のめざましい百五十年間にわたる。日本はこの間に、野蛮国から帝国に成長した。理由を尋ねないでは、どんな規則をもうけ入れないことに慣れているわれわれアングロサクソンには、不可能としか思えないのだが、日本は、僅かばかりの律令を作るという簡単な過程によって、全くあっという間に、革新の實をとげたように思われる。日本の歴史には、西洋の心にもすぐぴんとくるいく場面かがあった。芸術の輝かしい »続きを読む

バージェン・エヴァンス
『ナンセンスの博物誌』

1961,毎日新聞社、カバー、帯(少焼け)、真鍋博装丁、原田敬一訳、204P、訳者献呈署名
2,000円

人間とはなんと愚劣なことを信じ込む生きものでしょうか。これはアメリカの物知り博士が二十世紀の迷信と伝説に投じた軽妙にして皮肉な挑戦状です。(帯文より) 「・・・農民戦争以来、真の民主主義運動はすべて反宗教的だという刻印を押されてきた。一つはこれはそういう人たちを恥ずかしめる企てだったが、また一つには、民主主義とは本質的に反権威主義であることがわかっていたからだ。すなわち民主主義は、われわれが自分で物を考える権利を要求するだけでなく、その責任を与えるのだ。そして迷信は思索の敵である。理に合わない結論を拒否するということは、正直な人間の宗教の一要素である。そういう人にとっては盲 »続きを読む

遠藤周作
『青い小さな葡萄』

1965、新潮社、初、カバー(少焼け)、帯(少焼け)、蔵書印あり、四六版、198P
00円 (在庫なし)

遠藤文学の初期世界にみられる西欧と日本との間の人種差別に起因するテーマを扱った長編小説。 「”・・・憐憫はたくさんです。そっとしといて下さい。ぼくらを探さないで下さい。 ムッシュウ・イアラ、君のノートの中にもそんな言葉がたくさん書いてありましたね。無記名の人間になりたい。カメラの位置をどこにも固定したくないですか。・・・なるほど、あれは黄色人でも白人でもない一人の人間になりたい君の気持ちでしょうね。笑いながらクロスヴスキーはその顔を近づけてきた。” 『青い小さな葡萄』はキリスト教の真実を真向うから問いつめようとした作品なのかもしれない。そもそも≪青い小さな葡萄≫とは何だろう »続きを読む

ミルチャ・エリアーデ
『聖と俗:宗教的なものの本質について』

1969、法政大学出版会、初、カバー、帯(少焼け)、小口少汚れ、風間敏夫訳、四六版、258P
2,000円

聖と俗なる世界の対比により宗教的人間のあり方を明らかにするエリアーデの代表的な書。 「古代社会の人間は、聖なるもののなかで、あるいは浄められた事物のすぐそばで生活しようと努める。この傾向はもっともなこととして理解される、というのも≪原始人≫およびすべて前近代的社会にとって、聖なるものは実有に充ちている。聖なる力は実在と永遠性と造成力とを同時に意味する。聖と俗との対照はしばしば現実と非現実あるいは偽の現実との対照として現れる。存在し、実在にあやかり、力に充ち満ちてあることを、宗教的人間が熱望する所以もこの故に理解される。」(序言より)

小川和夫
『ニュー・クリティシズム』

1959年、弘文堂、初、カバー(少痛み)、旧所蔵者名、購入日及び印あり、四六版、装丁:井原道夫 151P
1,000円

「<ニュー・クリティシズム>New Criticism・・・次のような点がその共通の主張であるということができよう。 文学作品を、その作者の時代環境から説明することは、批評ではなくて、歴史にすぎない。 同様に、作品を作者の伝記的事実や心理から説明することは、批評でなくて、生理学乃至心理学的研究にすぎない。 逆に、作品を或る時代のドキュメントとして取扱うことも、歴史に属することであって、文学批評ではない。 文学批評は、作品を作品として論ずるものでなければならぬ。それは、作品の構成を論ずるものであり、本文の言葉に密着したものでなければならない。・・・」 こういう<新批評家>の主 »続きを読む