人文科学

ジョルジョ・アガンベン
『瀆神』

2005、月曜社、初、カバー、帯、上村忠男・堤康徳訳、139P
1,500円

「・・・あらゆる権力の装置はつねに両義的である。それは、一方では、主体化の個人的ふるまいから生じ、他方では、分離された領域へのその捕獲から生じる。個人的なふるまいは、それ自体では、しばしば、非難されるべきものをなんらもっておらず、それどころか、解放的な意図を表現しうる。非難されるべきは、もしかすると―状況や力に強制されたのでない場合には―装置に捕獲されてしまったことだけかもしれない。ポルノスターの破廉恥な身振りも、ファッションモデルの無感動な顔も、そのようなものとしては、とがめられるべきものではない。逆に、恥ずべきは―政治的かつ倫理的にダッシュそれらをそれらの可能な使用から »続きを読む

浅田彰
『構造と力』

1983、勁草書房、初、カバー(少経年シミ)、帯、四六版、240P
00円 (在庫なし)

構造主義/ポスト構造主義の思想をひとつの一貫したパースペクティヴのもとに論理的に再構成し、浅田彰現象とニューアカデミズム・ブームを巻き起こした書。 「・・・大学についてのふたつのイメージの対比から明確なパターンを抽出するために、文・理学部中心―法・医学部中心という対比に、即時充足的―手段的、虚学的―実学的、≪象牙の塔≫的―≪現実主義≫的といった一連の対比を重ねてみる。すると、それらは不協和音を発しつつも、ひとつの構図へと収斂していくだろう。その上で、大勢が前者から後者へ移ってきたというストーリーが語られ、最後に、あなたは二者択一の前に立たされる。両者のうちどちらを択び取るの »続きを読む

東浩紀
『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』

1998年、カバー、帯、初、四六版、338P
1,000円

「・・・この本は“何故デリダは奇妙なテクストを書いたのか”という問いに貫かれているが、実はそれは、“何故僕はその奇妙なテクストに惹かれるのか”という問い、つまりデリダをかくも抽象的な思弁へと、いわゆる≪哲学≫へと駆り立てているものは何なのかという問いでもある。ひとは何故哲学をするのか。僕は途中から半ば本気で、その大きな問題について考え始めていた。・・・結局のところ、それがこのデリダ論の躓きの原因である。・・・」  

安部公房
『裁かれる記録:映画芸術論』

1958、講談社、初、新書版、240P、装丁・カット:安部真知
00円 (在庫なし)

安部公房による映画批評。目次:裁かれる記録係、砂漠の思想、全面否定の精神、など。 「これは一年間に上映された映画の、いわば記録のようなものである。しかし、個々の作品評はさして問題ではない。あくまでも具体的なものからはじめて、映画一般というよりも、映画芸術と言語芸術の境界線をさぐり、両者の相違点と共通点を考えながら、むしろ芸術そのものを新しくとらえなおそうというところに、そのねらいがあったわけだ。だが、記録はつねに、記録自身によって裁かれる。裁いたつもりでいて、裁かれたのは実は私自身であったかもしれない。」(≪あとがき≫より)

ハンナ・アレント
『人間の条件』

1972、中央公論社、初、カバー(少痛み)、帯、志水速雄訳
00円 (在庫なし)

「これからわたしがやろうとしているのは、私たちの最も新しい経験と最も現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討することである。これは明らかに思考が引き受ける仕事である。ところが、思考欠如こそ、私たちの時代の明白な特徴の一つのように思われる。そこで私が企てているのは大変単純なことである。それは私たちが行なっていることを考えること以上のものではない。人間の条件の最も基本的な要素を明確にすること、すなわち、伝統的にも今日の意見によってもすべての人間存在の範囲内にあるいくつかの活動力だけを扱う。このため、人間がもっている最高の、考えるという活動力は本書では扱わず、理論上の問題とし »続きを読む