人文科学

青柳恵介
『風の男 白州次郎』

1990年、カバー(少汚れ)、初、私家版、菊版 
5,000円

“昭和史の隠された巨人”の人物像を、夫人である白州正子ら多数の知人の証言でたどる(新潮社版帯文より) 「・・・白州次郎の口から時にnoblesse obligeという言葉が発せられるのを聞いたと証言する人はobligeなどと言いながら、一種の使命感をもった素振りをされたら、何とも気障で歯が浮くような印象を与えるだろう。しかし、白州次郎の生涯を眺めわたしたとき、彼が身をもって実行し、己を律し、さらには高い立場にいる人間を容赦なく叱りつける際の言葉として浮かんでくるのは、不思議なことにさらりと気障な衣装を脱ぎ捨てた、このnoblesse obligeという言葉である。おそらく彼 »続きを読む

安藤忠雄
『建築を語る』

東京大学出版会、初、カバー、帯、菊判、260P
2,000円

建築の分野のみならず、若者が自分なりの生き方を発見するきっかけにとなることを願い行われた大学での講義をもとにした、建築家安藤忠雄/安藤建築を知るための最良書。 「私にとって、建築とは相反する概念の止揚、その微妙な狭間で成立するものであり、それは内と外、西洋と東洋、部分と全体、歴史と現在、芸術と現実、過去と未来、抽象と具象、単純性と複雑性といったまさに両極にあるものを同時に自らの表現する意思を介在させた一つの表現へと昇華させることです。そこに自らの意思をもって一つの「建築のあり方」を見出すことが、私にとっての建築という行為です。」

粟津潔
『粟津潔デザイン図絵』

1970、田畑書店、初、プラスティック・カバー、筒函、菊判、460P
9,000円

デザインとは何か?という根元的な問いを考える上での示唆に富む粟津のデザイン論。 「・・・本当の≪芸術≫というのは、まさしく自己を否定媒介にしながら、いわゆる反体制の芸術をつくりあげてきた。しかし≪芸術≫は、ひとつの観念に到達することによって砂漠をのり超えることができても、デザインは組織、技術、生産といったさまざまなプロセスを通りぬけなければならない。だから、その意味においても、デザイナーはあくまでもそのなかに自分の身を投じて、自分を対象化することによってはじめて、透徹した視軸を発見することができるのではないか。だいたい、デザインは≪つくりだす≫ことにあるのではなく、≪発見す »続きを読む

『記憶としての建築空間:イサム・ノグチ/谷口吉郎/慶應義塾』

慶應義塾大学アートセンター編、2005、227P
1,000円

萬來舎/ノグチ・ルームの存続の問題が浮上の折、改めてそのユニークな建築空間の意義を考え、記憶としての建築の側面を論じたもの。 「・・・本来、多様な年齢・関心の人々が集い、しかも外部の人も自由に出入りできるはずの≪大学≫という空間。しかし、実態は、様々な制度的なハビトゥスに雁字搦めに拘束され、学生たちが自由に集い語らう場すら十分に与えられていない、没コミュニケーティヴな空間(もちろん、学生たちにも責任の一端はある)。≪萬來喫茶イサム≫は、そうした大学の制度的網目の透き間を、コミュニケーティブな熱気で押し広げ、大学が通常抑圧している文化的潜勢力を再活性化しようとする≪セルフ・オ »続きを読む

市川浩
『中間者の哲学:メタ・フィジックを超えて』

1990、岩波書店、初、カバー、(経年少シミ)、帯、四六版、300P
1,500円

他者を排除しない、・・異次元の思考は可能か。 「≪中間者の哲学≫は、あくまでも断片としての中間者を基盤において、中間者を超える領域をさぐり、ふたたび中間者にかえることである。その全過程が中間者の行為あり、思索であり、中間者を定義するものでもある。・・・中間者は、全体でなく、欠如であるからこそ全体化を指向し、部分としては過剰であるからこそ全体化を指向する。インテンション(指向=意志)は≪断片≫である中間者の特徴である。・・・トランス・フィジックは、人間という中間者(パスカルのいう≪考える葦≫)を基本にすえた哲学であるが、ヒューマニズムではない。ヒューマニズムが人間中心主義とい »続きを読む