山口昌男編著
『二十世紀の知的冒険』

1980年、岩波書店、函、本体経年少焼け、菊判、324P

1,000円

 

山口昌男による世界的知性との対談集(R・ヤコブソン、M・セルトー、オクタヴィオ・パスら12名)

「・・・

山口:人類学と帝国主義的状況というのはよく論じられる話題ですが、人類学者がたまたま帝国主義・植民地主義の現場にいることが多かったという理由で、人類学だけを帝国主義的学問だとする問題の立て方に、私は賛成できません。むしろ、帝国主義のおこぼれにあずかって、西欧を世界を考える中心的モデルであるかの如き体系樹立を行った歴史主義、そうした歴史主義から派生したいわゆる実証主義的経験科学のほうが、西欧を絶対的な規範に仕立てたという意味でも、よりいっそう鞏固な帝国主義・植民地主義の精神的基盤を固めるために寄与したと言えるのではないかと思われます。私には、どの学問が他のどの学問より植民地主義的であるという発想は、どこかおかしいところがあるように思われます。

レヴィ=ストロース:そう。だがね、私には、われわれは、そうした事実についてのある種の恥じらいと後悔を持つようになっているとは考えられませんね。

それに、そうでしょう、テープ・レコーダーが第二次大戦中に開発されたからといって、つまりテープ・レコーダーが大戦の落とし子であるからといって、」それを使うことをためらわなくてはならないということにはなりませんからね。

山口:フランスで流行している人類学的告発・・・。

レヴィ=ストロース:いや、人類学を非難することは出来ないはずです。人類学が植民地時代の産物であるというのは一つの事実ではあります。しかし、子供には両親に反抗する時期が訪れてくるのと同様に、人類学も植民地主義にたいする極めて鞏固な反抗の原動力になってきたと私は信じています。

山口:そうですね。西欧社会の世界観や文化のモデルの優位をくずして、それを相対化し、西欧中心の歴史主義を武装解除し、西欧による他文化支配の正当性の基盤をつき崩してきたのは、人類学のラディカルな部分ですからね。それに、人類学者は絶えず、われわれの世界と他の世界の周縁に自らを置くことによって、西欧の思考の限界を突き抜けて、他者を理解するための新しいモデルを作り出して来た。

レヴィ=ストロース:そうです。だが同時、彼はまた、他者のわれわれの世界に対する≪仲介者≫であり、われわれは、この他者の世界が、自らを維持し、自らを表現し、とにかくその文化財産を救出する助けになっていると言うことができると思います。

山口:物事には、いつも反面の非難がつきまといますが、人類学者は、何時も何処かで、他の文化の記録係の役を担当してきましたね。先生のおっしゃることをそう取っていいですか。

レヴィ=ストロース:そうでしょう?長く植民地化されてきたいろいろな民族は、民族学者がいなかったら、彼らの過去についてほとんど知らなかったことになるでしょう。

山口:とにかく、人類学者であることは、、自分の文化からの逸脱の危険を含んでいます。しかし、日本の諺に“虎穴に入らずんば虎児を得ず”という表現があります。

レヴィ=ストロース:虎。うん、虎ねー。

山口:虎穴は野生の世界です。野生の世界に出会うために、人は自らが地理をよく知っている棲み慣れた土地にいとま乞いをしなければならない。

レヴィ=ストロース:まさにそうです。

山口:人類学の教えもそこにあるのではないでしょうか。思考の使い慣れた回路を去って、経験と思考の未知の回路を組織する。

レヴィ=ストロース:そう、それがわれわれが身につけようとしているものです。・・・」  『人間科学の新たな地平―レヴィ=ストロース』より