安岡章太郎
『アメリカ感情旅行』

1957、岩波書店、初、帯、本体少経年シミ、新書版、216P 口絵写真:石元泰博

1,000円

「・・・ここへ来て私は何人かの人間と知り合った。地図をひろげて、その広大さをながめると、これはいかにも収穫の少ない旅だったように思える。こんなに遠くまでやってきて、たったそれだけのことで、また帰らなければいけないのか、と思う。しかし、そうした無力感はいまにはじまったものではなく、元来私につきまとっていたもののようだ。正直のところ私は、アメリカは未来の国であり、その国民の肩にはわれわれ人類の運命がかかっているといった壮大なことも、とくに感じたりはしなかったし、よくいわれる≪非常に金持≫の国だともおもわなかった。しかし、そのかわりにまた、アメリカ人がわれわれとひどく異った物質的成功と現世的な快楽ばかりを追う国民だとも思わない。それどころか、彼等はかえってわれわれに非常によく似た人たちだ。―無論その場合の「彼等」は私の知っている範囲の人たちのことだし、それがアメリカ人全体だとは決して言えないわけだが―。皮膚の色のちがい、生活様式のちがいを数え上げればキリがないが、それでも全般からみれば、彼等はわれわれとほとんど何ら変らない人たちではないだろうか。彼等の考え方には、われわれとちがって社会性があり、宗教があり、立派な道路や公共施設があり、個人の自由をおたがいによく尊重し合う良識があることは事実だが、一方、彼等もまた人の噂話や陰口を好み、息子の嫁についてグチや不平をもらし、ナッシュヴィルのような都会の中心部にさえクミトリ便所がのこっていることも事実である。もし私がここに来て何か学んだとすれば、このことかもしれない。つまり彼等はわれわれと同じ人間であり、仮にわれわれとは非常にちがって見えるところがあっても、結局それは程度の差であって、質の相違ではない・・・。このことは彼等とわれわれとの立場のちがい、国の大小、その歴史や伝統の背景のちがい等があるにもかかわらず、事実としてそうなのである。この大掛りな旅行―私としてはそう思わざるを得ない―から学んだことが、たったそれだけだったとしても、やはりこれは非常に貴重な体験だった。」