「・・・
“あ、ご免なさい”
“おや、まあ!”
私の家の向いに住んでいる八人の子持ちのルシルだった。スーツを着て盛装していたので、向うが気がつかなければ私は彼女と知らずに行き過ぎたかもしれなかった。
“笑子にここで会うとはね。”
“ワシントンから帰ったところよ。これからハアレムへ帰るわ”
“私も帰るところだよ。地下鉄の乗場はあちらじゃないか”
“あら、そうだった。うっかりしたわ”
“ワシントンはどう?”
“桜祭りで行ったのだけれど”
“おお、桜祭りだって。そりゃ素晴らしかったでしょう”
“ええ、素晴らしかったわ”
心にもない返事をしたのに相手は人の好い笑い顔になって、自分もワシントンへ行ってきたように喜んでいる。その瞬間、私は躰を包んでいた殻がカチンと音をたてて卵の殻のように割れたのを感じた。
私も、ニグロだ!
私の夫もニグロで、もっと大事ななことには私の子供たちもニグロなのに、どうしてもっと早くその考えに辿りつけなかったのだろう。レイドン夫人は日本にもニグロのような人間がいて、それがお恥ずかしい戦争花嫁だと云ったが、そんなことでもなければ、それで私が心を射抜かれたり衝撃を受けたりすることはなかったのだ。私はすでに変質している筈なのだ。ワシントンの桜のように!私はニグロだ!ハアレムに中で、どうして私だけが日本人であり得るだろう。私もニグロの一人になって、トムを力づけ、メアリーを育て、そしてサムたちの成長を見守るのでなければ、優越意識と劣等感が犇めいている人間の世界を切拓いて生きることなど出来るわけがない。ああ、私は私の躰の中から不思議な力が湧き出して来るのを感じた。・・・」