ロックフェラー財団と日本人創作家派遣プログラム

太平洋戦争終結後、日本が戦後復興を遂げつつあった1950年代に、ロックフェラー財団は主に日本人作家を対象にクリエィティブ・フェローシップを実施し、海外の諸事情、とりわけ、米国に触れる機会を提供しました。国際文化交流の先駆けとしての彼(女)等による異文化接触はどのようなものだったのでしょうか。また、その経験はその後の彼(女)等の仕事にどのように反映されたのでしょうか。今回のフォーラムでは、招聘日本人作家による見聞録としての側面をもつ著作及び関連書を紹介します。


「・・・為政者が祖国の悲劇と半ば飢餓状態にあった一般国民に対して申し訳ないと詫びていた時代はとっくにすぎて、民主主義の生活を打立てるためにはどうしたらよいかという大きな課題と取り組み、前途はまっ暗で途方に暮れていた。その時、ロックフェラー財団の文化部長で、基金の授与を担当していられたチャールズ・B・ファーズ博士が来日された。博士は京都大学に学ばれ、日本語が堪能で、終戦後各年毎に日本を訪れ、私たちが当面している困難な問題をよく知っていられた。そして、終前ロ財団が日本の学術団体や大学に援助を、また教授や研究者を海外に留学させて下さったりした例に鑑み、敗戦国の日本で創作活動に従事している人たちを一年の予定で海外に派遣することにしたいといわれた。これをきいて私は飛び上るほどよろこんだ。当時の日本にとって海外事情を詳細に書いてくれる人たちこそ、ほんとうにこれからの日本の民主主義の手本を示してくれることになると思ったからである。そしてこれはロ財団の創作家への奨学金ということになり、期間は一年間、数か月合衆国に滞在するのが望ましいが、別に制限はない。ヨーロッパに行ってもよい。報告その他は一切要求しない。私が候補者を選び、ファーズ博士が面接して最後に決める。大体こんなことで話がまとまり、その第一回に福田恆存さんと大岡昇平さんが選ばれた。占領下にあって公務以外は外国へ行くのを許されていない時であったから、この計画は歓迎された。そして発表された新しい眼でみる西欧の鋭い観察は広く注目され、日本の進路を暗黙のうちに示唆した。・・・」

(坂西志保  庄野潤三著『ガンビア滞在記』中公文庫(1975年刊行)への解説より)