石井桃子
『児童文学の旅』

1981、岩波書店、初

00円 (在庫なし)

「・・・ロス・アンジェルスで会ったリヴジーさんは、いまや自分の監督すべき分館が五十三になったといって、寸暇もなさそうだった。このまえのとき、私はこのひとと、のんびりセイヤーズ夫人を訪ねて、一夕をすごすことができたのに。

”アメリカの子どもの本の出版は、大きな事業になりすぎました。”と、リヴジーさんは、私と話しているあいだも。たえず若いひとに命令をだしたり、電話に出たりしながらいった。”毎年、あとからあとからこうたくさんの本が出ては、質がさがるのは当然です。子どもの本は、もっと少なく、念を入れて、質のいい作家に書いてもらい、質のいい編集者に編集してもらうようにしなくてはならないのです。去年出た二千点の本のうち、私たちが選んで、さあ、どれdもいいから、すきなのをお読みなさいと、子どもたちにむかっていえるようなものは、五分の一の四百点くらいでしたよ。二千点から四百点、それを選びだすわたしたちの苦労を考えてみてください。しかも、本を選べば、それで図書館員の仕事は終ったというわけにはゆかないのですからね。”

シカゴで会ったバチェルダーさん―これが、このまえの最初のアメリカ横断のとき、私の会いはぐったひとである―は、ぼう大な組織であるアメリカ図書館協会(略してALA)の本部の児童部長であるから、個々の子どもの本の話、作家の話などはあまりしない。

私が、日本の子どもの本は国家的な保護政策も、組織的な奉仕活動のつみ重ねから生まれる評価基準もほとんどもっていないと語ると、彼女は、けげんな顔をした。そして、彼女たちのやってきた、長年にわたる国への働きかけ、図書館法、作家、出版社、PTAとの結びつきなどについてたてつづけに聞かせてくれた。しかもその話が、それぞれのところで無数の枝葉に分かれるので、しまいに、私は聞いた数字などはみな忘れ、ただアメリカの子どもの本は、コンクリートのようながっしりした仕組みの上で、どんどん作られてゆくのだなという印象を受けてしまった。

そして、それはおかしなことに、大きな長所もあるかわりに、ロス・アンジェルスのリヴジーさんの吐いたなげきとつながっていないともいえないようであった。一つの仕組みは、それが強力になると、清獨あわせ飲んで、とめどもなく大きな流れになって進みだしかねない。子どものための良書をだれのためにも開放するという意図のもとにつくられているアメリカの公共図書館の児童室が数多くなり、強大になり、社会の関心も強まってくるにつれ、子どもの本をつくる仕事は、もうかる商売になる。もうかる仕事には、手をだす人がふえてくる。ところが、子どもの本というものは、書く面でも、挿絵の面でも、造本の面でも、印刷の面でも、見た目よりもずっとむずかしい。子どもの本の批評家や編集者として、りっぱな仕事をしているひとたちのなかで、二、三十年の年季をいれている人が多いのは、子どもの心、このみを、しっかり理解し、把握するためには、それだけの年月がいるからである。・・・」