鶴見和子
『デューイ・こらいどすこおぷ』

1963、未来社、初、カバー(少焼け、痛み)、菊判、262P

1,500円

アメリカのコモン・センスを代表する思想家ジョン・デューイの自身の見方の変容を社会学者の鶴見和子が語る。「デューイは、これまでの哲学者のように、精神と物質、主観と客観等、哲学者があたまの中からつくりだしたかんねんから出発することをやめようと提唱する。そのかわりに、ふつうの人が、毎日つきあたる日常の粗い経験(gross experience)から出直そうという。わたしたちが、つらいとかたのしいとか、苦しいとかこころよいとかいう感じをもって、じかに外界をあじわうことから始まる。苦しみやつらさをとりのぞくために、設計をたてる。そして、道具(それはものであってもいいし、またコトバであってもいいし、または科学の法則であってもいい)をつかって工夫しながら、外界を支配し、他の人間を動かしてゆく。そしてふたたび、自分の設計の失敗と成功を。じかにあじわう。このような、ひとめぐりの、個人の日常体験を、哲学の対象とした。人間が、日常生活でつきあたる具体的なもんだいに対し、はっきりした見とおしをたてて、成功的に解決してゆく方法を見だすことが、かれの哲学の目標であった。そのイミで、かれの哲学は、常識に根をもち、ふつう人につながる。かれの哲学のもう一つの特徴は、哲学という一つのナワバリをふりほどいて、経済学、社会学、政治学、法律学、物理学、生物学、等々のいろいろな専門領域の、異花受精(cross-fertilization)を提唱したことである。・・・これら二つの志向が、デューイの哲学のささえとなっている。・・・」