ウェブ・プチ・ギャラリー

二つの表象:知性と感性を通じ

本サイトは、言語的及び非言語的表象による知性と感性の融合を通じ、世界やそこに生きる人間存在について、思索する機会の創出を目的としているが、右記にて日本の作家(詩・小説)と美術家のコラボレーションによる詩画集の事例の一部を紹介します。


「ほかの国々の文明・文化についてはいざ知らず、日本では、詩歌・文章と美術との関係は非常に古い時代からきわめて密接だったと言っていいだろう。
『源氏物語』「絵合」の巻は、光源氏が後見をしている斎宮女御と、頭中将の娘で斎宮女御よりも先に冷泉帝に入内していた弘徽殿女御との間で争われる絵巻物の傑作くらべを、生彩ある筆致でみごとに描いている。・・・その間双方がさかんに自陣の絵巻の優秀さをたたえ、相手方の絵巻の欠点を言いたてる言葉争いもあって、紫式部という作家が、11世紀初頭における堂々たる美術批評家であったことを示しているといってよい。
全世界的な視野に立って見ても、物語の中でこれほど洗練された絵画鑑賞論が展開されているケースは稀だろうと思われる。・・・
こういう部分を読むと、日本の美術がいかに言語文化の洗練と歩調を合わせて発達してきたかを思わずにはいられない。紫式部より一世紀先に生きていた紀貫之の時代には、上級貴族らの邸宅はすでに屏風という形の詩画集の全盛期だった。貫之の歌集の中には、屏風に書かれた屏風歌―もとよりすべてが注文制作―が数多く収録されている。屏風歌とは、しかるべき貴族の50歳とか60歳とかの賀のため、あるいはその他さまざまな機会に新調された、当代一流の画家による屏風絵に付け合わせて詠まれた歌のことで、こららの歌は屏風上に囲いこまれた色紙形の中に書き加えられ、詩画一体の観賞用工芸品がそこに出現したのである。・・・
絵巻とい形式が日本で数百年にわたってきわめて顕著な発達をとげたということは、それが現代の日本人にとっても相変わらずきわめて親しい鑑賞的態度の典型を示していたことを意味する、とはいえないだろうか。
日本で、美術と言葉が結びついた美術作品の分野において、数々の息を呑むような傑作が作られたことは、こういう歴史的背景を考えれば当然だろうと私は思う。・・・
こうして見れば、近代・現代の美術家および詩歌文芸界の志ある人々が、苦闘に次ぐ苦闘を重ねなければ、この長い伝統の重圧をはねのけて自分たちの個性が強烈に輝き出ている詩画集・オブジェのたぐいを制作することはできなかった、という経緯もおのずと明らかだろう。・・・」

大岡信『日本の美術と言語芸術の関わりについて』(『本の宇宙』展カタログより)

 

死とエロス

世界と人間存在をめぐる思索と表象としての二項対立的思考は、古今東西を問わず、一つの認識論的枠組み(パラダイム)を今なお提供しています。生と死(エロティシズム)、東と西(オリエンタリズム)、南と北(格差問題)、男と女(ジェンダー)、光と影、善と悪、文化と自然、など、異なる諸力や価値体系が衝突し、争いの火種を播く対立となることもあれば、異質なるもののケミストリー(化学反応)や融合がポジティブな変化や発展につながることもあります。東西の識者によるパサージュとアーティステックな表象を通じ、こうした二元論に起因する諸問題やその根源にあるものについて再考する機会の創出を試みます。

「死とエロス」は人間存在を考える上で重要なテーマです。今回のプチ・ギャラリーでは、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユによる『エロティシズム』および言語哲学者丸山圭三郎による『ホモ・モルタリス:生命と過剰』からのパサージュとともに本テーマとも関連する、美術家の作品を紹介します。


「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。・・・生殖のための性活動は有性動物と人間に共通の事柄なのだが、しかし見たところ人間だけが性活動をエロティックな活動にしたのである。エロティシズムと単純な性活動を分かつ点は、エロティシズムが、生殖、および子孫への配慮のなかに見られる自然の目的[種の保存・繁栄]とは無関係の心理的な探究であるというところなのだ。・・・これから私は、不連続な私たちにとって、死が存在の連続性という意味をもつことを明示しようと思う。たしかに生殖は存在の不連続性につながっている。だが他方で生殖は存在の連続性を惹き起こしもするのである。つまり生殖は密接に死と結びついているのである。私は、まさに死と存在の生殖について語ることによって、死と存在の連続性が一致していることを明示してみたいと思っている。というのも、死も存在の連続性も、ともに魅惑するものだからだ。そしてこの双方の魅惑こそがエロティシズムを支配しているのである。」
(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』2004、筑摩書房、酒井健訳)
「後期フロイトが、それまで生物の二大本能とみなしていた、①個体維持のための食欲の源である〈自己保存欲動〉と、②種保存のための性欲の源である≪性欲動≫の対立、≪飢餓と性愛≫とも言うべき対立を解消し、両者ともエロスという≪生の欲動≫に包摂し直したことはよく知られていよう(『快楽原則の彼岸』、1920年)。そして二元論好きのフロイトが、≪生の欲動≫に対立する新たな項として≪死の欲動≫を立てたことも有名である。・・・しかしエロスとタナトスを対立させることは出来ないだろう。いずれも同じ生の円環運動上の一通過点であり、ヴェクトルの違いがあるだけなのだ。私の≪死のコスモソフィー≫は同時に≪生のコスモソフィー≫である。狭義の生(=食と性)も死も、ともに大きな生に包摂されて、その対立項はない。円環上の一点一点が、死を孕んだ生であり生を孕んだ死であると言ってもよい。一方のヴェクトルはカオスの不連続化・拘束に向かい、他方のヴァクトルは連続への回帰・解放に向かう。そして生の快楽、すなわちエロティシズムは、昇華と排除によって生ずる。・・・」
(丸山圭三郎『ホモ・モルタリス:生命と過剰』1992, 河出書房新社)

社会とアート

さまざまな民族、言語、宗教、文化、社会制度、経済システムが共存する空間としてのアジア太平洋地域は、21世紀に入り、その潜在性や可能性がますます高まる一方で、経済格差、環境、人権、安全保障、歴史認識、地政学や人口問題などの課題も山積しています。こうした背景を踏まえ、アジアの芸術家、とりわけ、今後の活躍が期待される美術家による社会とアートの結び付きを考える仕事の一端を紹介します。


アジアの中の一角を占めるインドもまた著しい経済成長を背景に、アジアのみならず、世界の中でもそのプレゼンスを益々高めていると同時に、ナショナリズム、格差、宗派間対立などさまざまな問題を露呈させています。そうした文脈の中で、インドのバロダを拠点にした、版画制作・研究に携わる若手美術家で、社会的メッセージ性の高い創作活動に関わるソグハ・クラサニ(Soghra Khurasani)、チャンドラシェクハール・ワグマール(Chandrashekhar Waghmare) 及びサブラット・クマール・ベヘラ (Subrat Kumar Behera) の仕事の一部を垣間見ます。

暗い陰影(Dark Shades)

ソグハ・クラサニ(Soghra Khurasani)

薄れることのない暗い陰影(Dark Shades Never Fade)

ソグハ・クラサニ (Soghra Khurasani)

ステュディオ (Studio)

チャンドラシェクハール・ワグマール (Chandrashekhar Waghmare)

我々の時代をちらりと見る(A Glimpse of our Time)

チャンドラシェクハール・ワグマール (Chandrashekhar Waghmare)

休息 (Relief)

サブラット・クマール・ベヘラ (Subrat Kumar Behera) 

タイトル無し (Untitled)

サブラット・クマール・ベヘラ (Subrat Kumar Behera)