村上 仁
『藝術と狂気』

1950、みすず書房、初、帯(背少焼け)、数か所箇所書き込みあり、B6版、165P

1,500円

精神医学者から見た藝術と狂気。
「・・・天才と性格異常との関係は、如何なるものであろうか。この問題は個々の実例の詳細なる観察によって初めて解決できることで、すべての場合にあてはまるような原則はあり得ないであろうが、ただ一般的に云い得ることは、天才も性格異常者も敏感、不安、緊張、矛盾と分裂、衝動性等不安定な平衡を失い易い共通の傾向を持って居り、これが天賦の才能と結びつくことによって、この不安定な傾向を制御しこれを作品にまで結晶せしめ得た際に、初めて天才的な業績が生れるのであろうということである。しかしこのような不安定な性格はそれが反社会的な行動に爆発する場合も多いのであって、この場合は単なる浮浪者、犯罪者となる。実際にもその実生活を観察すると浮浪者、犯罪者に異なる所のないような天才は必ずしも稀ではなかった(フランソア・ヴィヨン、ヴェルレーヌ)。
・・・
しかし天才の性格偏倚と通常の性格変質とが文化的基準からはとにかく生物学的にも異なったものであるという考えが誤りであることは、天才の家系にしばしば平凡な精神変質や精神病が発見されるという事実によっても証明できる。(例えばゲーテの妹は精神病者であり、二人の息子は性格異常者であった)。また、天才自身の性格が時として如何に多くの人間的な悪徳と弱点に満ちていたかは、ミケランジェロやドストエフスキーの伝記を読んだ人は誰でも知っている。
そして更に重大なことは彼等の業績がしばしば彼等の性格の弱さ、ゆがみと離すべからざる関係にあるということである。彼等はその性格の故に≪円満なる凡人≫には決して洞察できなかったような人間の実存の深みにまで入り込み、人間の新しい可能性の極限の世界を発見することができたのである。ヤスパースは現代の哲学の出発点となったニーチェとキェケゴールとが、二人とも当時の社会に対する反逆者、最も本質的な意味における仔読者、≪例外人≫であったことを指摘しているが、孤独なる人間のみが本質的な人間性の開拓者であり得ること、また新しい真理の人間への告知は不幸な宿命と性格との犠牲に依ってのみ可能となりという深い逆説がこの≪天才と狂気≫という問題の内に含まれているのではないか。 ・・・」