木村敏
『人と人との間』

1974、弘文堂、初、函(数か所に染み)、四六版、238P

1,000円

日本人論の古典の一冊。
「≪われわれ日本人≫に表されている日本人の集合的アイデンティティーが、西洋人のそれと違って個人的レベルのものではなく、超個人的な血縁的、それも血縁史なアイデンティティーであるということ、これが本書において最初に押さえておきたい一つの眼目である。この血縁史的アイデンティティーは、実に多くの「日本固有」の現象を説明する鍵になる。例えば中根千枝氏のいわゆる≪タテ社会≫をとってみても、これはいわば、この血縁史的アイデンティティーが、現在の時点に投影されたものにほかならないし、土居健郎氏のいう≪甘え≫にしても、このアイデンティティーが現実の対人関係の場面に投影されたものと見ることができる。

ただし、ここで≪血縁史的≫といっても、それは決して歴史的な≪タテ≫の面だけに着目してよいというものではない。むしろ、私がここで強調したいのは、このアイデンティティーが個人レベルのものではなくて、超個人レベルおものだ、ということである。逆にいうと、この超個人レベルのアイデンティティーが、民族意識というような、それ自体の中に歴史性を含んだ問題の中に姿を現わすとき、これが血縁史的アイデンティティーの形をとるのだ、といった方がよい。

もっと一般的な言い方をすれば、それは一人一人の個人的アイデンティティーとか、それの集合としての集団的アイデンティティーではなくて、おのおのの個人がそこから生まれてくるような、個人以前のなにものかに関するアイデンティティー、禅でいうと≪父母未生巳前の自己≫に関するアイデンティティーである。

そこからと言い、個人以前と言い、父母未生前と言っても、これはいうまでもなく、時間的な≪より以前≫の意味ではない。これはいわば存在論的な≪以前≫、つまり存在の根拠の意味での≪以前≫の意味である。≪個人以前≫とはしたがって、個人が個人であるための根拠、言いかえると、自分がそこから自分として自覚されて来るような自覚の源泉のことである。

個人が個人として、つまり自己が自己として自らを自覚しうるのは、自己が自己ならざるものに出会ったその時においてでなくてはならない。自己がこの世の中で、自己以外のものに出会わなければ、≪自己≫ということがどうしていえようか。自己はあくまで、自己でないものに対しての自己である。しかし、ここで≪自己でないもの≫といわれているものも、それが≪自己でないもの≫といわれうるのは、自己と区別される限りにおいてである。自己が自己とならない問は、自己ならざるものも、まだ≪自己ならざるもの≫とすらいえない。だから、自己と自己ならざるものの両者は、いわば同時に成立する。西田幾多郎氏の有名な”世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する”は、この点を指している。

自己と自己ならざるものの成立が同時であるということは、同時にこの両者を自らの中から成立せしめるなにものかがあるということである。自己が自己ならざるものを生じしめるのでも、自己ならざるものが自己を生ぜしめるのでもない。自己が自己ならざるものに出会った、まさにその時に、ぱっと火花が飛散るように、自己と自己ならざるものとがなにかから生じる。その一瞬、自己は自己ならざるものを認めて、自己を自覚する。その一瞬、自己ならざるものは、自己から区別されて自己ならざるものとして認められる。そこで、個人と個人との肉体的区別とは違った意味での、人格的区別が成立する。個人が真に人格としての個人となる。個人とは、このなにかが、自己と自己ならざるものとの出会いを機縁にして分れて生じて来たものである。このなにかが個人以前にある。

このなにかとは、もちろん実体を持たないものである。しかし、実体を持つものだけが実在するものではない。物理学の世界においてさえ、実体をもたないエネルギーとか力とかが実在として認められなくてはならないように、人格の世界においても、このような実体を持たないなにかの実在は認められなくてはならぬ。

エネルギーとは何か、力とは何かを、他の物体的概念を借りることなく直接に言い表わすことが不可能であるのと同様に、このなにかをそれとして名指し、他の実体的概念を借りずに直接に言い表わすことも不可能である。言葉とは、残念ながらそういうものである。私はさしあたってこのなにかを、≪人と人との間≫という言い方で言い表しておこうと思う。もちろんこれは、人と人とがすでに独立の個人として向い合っている、その二人の間の関係のようなものを指しているのではない。自己と自己ならざるもの、私と汝、個人と個人がそこから同時に成立する、このなにかのある場所は、いわば人と人との間なのであるから、仮にこう呼んでおくだけのことにすぎない。

この『人と人との間』は、現在いまここである個人がそこから成立してくるところのなにかの場所であるだけではない。このなにかとは、肉体として存在する人間を離れたものであり、特定のこの人間、あの人間についてそれぞれ存在しているようなものではない。エネルギーや力が、宇宙に遍在しているものと考えられるのと同じように、このなにかも、どこにでも、いつでもあるものと考えなくてはならない。それはいわば、人間が発生して以来、あるいはむしろそれ以前から、絶えずありつづけたもの、今後も絶えずありつづけるであろうものである。・・・」