中沢新一
『チベットのモーツアルト』

1983、せりか書房、初、カバー、帯

1,500円

「この本の書名は、ジュリア・クリステヴァの論文集『ポリローグ』からとられている。『ポリローグ』のなかで、彼女は、フィリップ・ソレルスの小説『H』の音楽性について語っている。『H』には、句読点がひとつもない。言葉で書かれたものでありながら、シンタックスや論理や制度的なスカンションによる≪意味の有限化≫を拒絶しようとしている。≪意味の構造≫に微分・差異化のアタックがかけられ、さまざまなレヴェルの同一性は解体されて、意味は無限化にむかってひたすら疾走しはじめようとしている。

だが、『H』における意味の微分法は、同時にこのうえなく豊かな官能性に裏打ちされている。テクストをかたちづくる言葉の群れに、腰のあたりがうずいてくるような、松果体がふるえだすような、リズムのうねりがあたえられからである。

エレガントな記号の解体学。微分法の官能性。クリステヴァはそれを≪チベットのモーツァルトのような≫と形容した。

意識の表層がモーツァルトの音楽に聞きとるのは、抒情的なモノトーンにすぎない。だが、そのとき同時に、この音楽は静かで柔らかな暴力性とわきたちうねるような律動で、意識の深部を打ちつづけているのである。チベット仏教の声明音楽の場合も、これとよく似ている。たしかに、そこには聞くものを退屈させかねないモノトニアスな声が流れていくだけだ。けれどもそのときにも、声明の音楽主体の身体には同時に複数の低音部が響きあっており、それが彼の意識の深部を打ちつづけている。

記号実践の場におけるチベットのモーツァルトは、あらゆる形式の言語の手許をすりぬけて、意味の無限化のほうに、多様体としての身体のほうに、音楽と官能性のほうに逃れ去っていく運動線をあらわしている。

チベットのモーツァルト

だがぼくはこの言葉に、ゴダール風の東風趣味とともに、クリステヴァの意図をこえていく思想実験への意志のようなものをこめようとした。・・・」