ジャン・ボードリヤール&ジャン・ヌーベル
『建築と哲学』

2005、鹿島出版会、初、カバー、帯、四六版、181P、塚原史訳

00円 (在庫なし)

現代フランスを代表する知性の特異な出会いとダイアローグ。「JB:ラディカルということ(過激であると同時に根源的であること)を、私はこれまで建築の領域よりは記述(エクリチュール)や理論の領域で構想してきたが、今では空間がラディカルであることに心惹かれている。・・・もっとも、真にラディカルなのは、おそらく無なのだから、空白こそは真にラディカルな空間ではないだろうか。・・・私がジャン・ヌーベェルにたずねたい質問は、ごく単純なものだ。・・・≪建築にとって真実は存在するだろうか?≫建築にとっての真実とは、ある種の現実のことではない。つまり、建築とはもろもろの基準や目的や用途、様式や手続きから本質を汲みだすものだろうか?建築とはそうしたことすべてを超えて、別の何かからその本質を汲みだすのではないか?・・・いったい建築とは現実的なものの限界の彼方に存在しているのだろうか?

JN:限界としての建築について語ろうとする場合には、いつでも知と非知の臨界に位置しなくてはならない。建築の冒険とは、まさにこの臨界の体験であると同時に、現実としての世界、つまり一定の合意をふくむ世界に位置づけられる。あなたはどこかで、誘惑が存在するためには合意が必要だと述べていた。じつは、建築家の仕事とは、社会情勢の力関係を利用して誘惑の様式(モード)にかかわるという仕事であり、その意味で、建築家は非常に特殊な状況に置かれている。・・・[建築の]非物質化は、私が関心を抱くことのできる考えのひとつで、無限の塔はその一例となる。たしかドゥルーズが『プルーストと記号』で、別のいい方ではあるが、そのことを論じていたと思う。物質ではなく非物質的なものをつうじて、感知可能なものの認識をひきおこすというこの種の方向転換は、建築が取り入れるべき概念のひとつだ。したがって、そのような概念から出発して、目に見えるもの以上の何かの創造へとたどりつくことができる。そして、この≪目にみえるもの以上の何か≫は、もろもろの場所をつうじて姿を現す。・・・」