森有正
『経験と思想』

1977、岩波書店、初、B6版、207P

1,000円

1970年代に国際基督教大学で行った講義の草稿をもとにしたもので、人間が個人として社会を構成し生きている事実を、≪経験≫が成熟して≪思想≫に到る一つの実存的過程として内側から捉えようとした試み。

「人間が≪人間として≫生きる態度をいかにして確立するか、という問題の、私自身の、また私なりの探究である。・・・経験と思想とは言いがたいもの、語りがたいもの、しかもそれでいて、我々の個人性と普遍性とが繞って現れて来る根源だと思う。・・・私は本当の経験と思想とは、学校教育とは全く逆に、人生の終りになって、一箇の人間が成熟をとげた時に始めて明らかになるものである、と思っている。経験は一箇の人生全体を具体的に定義するものであり、思想は、一つの社会に普遍的に用いられる言葉が、その同じものに定義されたものであり、この両者の間には自覚した人間が立っているのである。

コレージュ・ド・フランスの教授ポール・ミュス氏が『エスプリ』という雑誌に美しい一遍の追悼文を書いている。・・・ミュス氏は小学時代を郷里の南仏で過したが、その同窓にイラリオン・イカールという百姓がいた。兵隊にとられるとすぐ第一次大戦が勃発し、最前線に送られ、二週間も経たないうちに両手両脚に重症を負い、大不具合になってしまった。しかしかれは凡ゆる努力をして、義手義足を駆使してともかく人並みに働けるようになり、七十何年の勤勉な生涯を閉じた。ミュス氏が言うには、フランスにはこのように、デカルトの『方法叙説』を読む必要のない人間が多数にいるのだ。だからこそまたデカルトのような人が出るのである、と。・・・こういう生涯こそ一つの経験であり、一つの思想ではないだろうか。・・・」