ジョルジョ・アガンベン
『瀆神』

2005、月曜社、初、カバー、帯、上村忠男・堤康徳訳、139P

1,500円

「・・・あらゆる権力の装置はつねに両義的である。それは、一方では、主体化の個人的ふるまいから生じ、他方では、分離された領域へのその捕獲から生じる。個人的なふるまいは、それ自体では、しばしば、非難されるべきものをなんらもっておらず、それどころか、解放的な意図を表現しうる。非難されるべきは、もしかすると―状況や力に強制されたのでない場合には―装置に捕獲されてしまったことだけかもしれない。ポルノスターの破廉恥な身振りも、ファッションモデルの無感動な顔も、そのようなものとしては、とがめられるべきものではない。逆に、恥ずべきは―政治的かつ倫理的にダッシュそれらをそれらの可能な使用から剥奪したポルノグラフィの装置であり、ファッションショーの装置である。

ポルノグラフィーという≪神聖な汚すことのできないもの≫―あらゆる神聖を汚すことのできないもの―は、まさしく真正な意味においての瀆神的な意図の捕縛と逸脱のうえに築かれている。このために、その都度、もろもろの装置から―あらゆる装置から―、それらが捕獲した使用の可能性を奪い取らねばならない。≪神聖を汚すことのできないもの≫の神聖を汚すことは、来るべき世代の政治的課題である。」