藤田省三
『天皇性国家の支配原理』

1966、未来社、初、カバー

00円 (在庫なし)

「明治以来の近代日本において、≪天皇≫の語の意味連関は、実に複雑多岐にわたっている。むろん、あらゆる政治的象徴は、それが取り上げられる政治的状況と、それを操作する政治的勢力の企図如何によって全く逆の意味内容を表象することすら屢々である。しかし、≪天皇≫観念の多義性は、行論のうちに明らかになるように、全く同じ政治的状況のもとで同じ政治的支配者の中に、同時に主観的真実として存在しているというてんで、まさに「万国に冠たるもの」があった。象徴としての≪天皇≫は、或は、≪神≫として宗教的倫理の領域に高昇して価値の絶対的実体として超出し、或は又、温情に溢れた最大最高の「家父」として人間生活の情緒世界に内在して、日常的親密をもって君臨する。しかしその間にあって、≪天皇≫は政治的主権者として万能の≪君権≫を意味していた。したがって前二者にあっては、≪天皇≫の支配体制(レジーム)は、政治外的領域を基礎とした≪神国≫となり、或は≪家族国家≫となるが、後者においては、体制は、最高の権力者によって統合される≪政治国家≫そのものに他ならなかった。そうしてこうしたもろもろの体制観念が同一化して行ったことによって、赤裸々な権力行使は、一方で神の命令として至上化されながら、他方で≪涙の折檻、愛の鞭≫として温情と仁慈の所産とされ、権力は権力として自己の存在理由を主張する近代的国家理性を失い、被治者に対する権力の陰蔽は支配者の理性と責任意識を自己陰蔽して、そこに権力の無制約な拡延を生み落したのである。政治権力が≪権力に内存する真理性≫(ヘーゲル)への自覚を喪失して、政治外に存在理由を求めて行く過程は、他ならぬ権力が全生活領域に普遍化し、したがって、日常化し、権力の放恣化を帰結して行く過程であるが、わが近代日本においてはとくに権力が道徳と情緒の世界に自らを基礎付けたことによって、権力の客観的な放恣化は主観的に神聖化され、したがって≪主体的≫に促進されることにさえ至る。そうしてこの論理過程は同時に、近代日本の政治が辿った歴史過程でもあった。・・・」