庄野潤三
『プールサイド小景』

1955、みすず書房、 初、カバー、帯、 芥川賞
佐々木基一宛署名

10万円

「”何という、うっかりしたことだろう。いったい、自分たち夫婦は、十五年も一緒に暮していて、その間に何を話し合っていたのだろうか?”

快活な課長代理夫人の目には、夫の生活や心情が見えなかっただけでなく、自分の過してきた時間、自分の毎日さえも見えていなかった。その夫が会社の金を使いこんでクビになるということでとつぜん時間の運行が停止してみて、はじめて今自分は何をしているのだろうかと不安になる。
一方夫は、朝早く会社に出た時、誰もいない事務所の椅子の背に、そこに坐る人間から滲み出た油のようなしみを見る。また仕事中に便所へ行く時、白い封筒がビルの暗い廊下の透明な郵便受けの中を通り抜けて行くのを、淋しい魂の落下のように見る。――これらは庄野さん自身の会社勤めの時間のふしぶしに、ふと見えたものだろう。
そしてこの夫婦が、プールサイドの他の人々(コーチの先生や電車の客や、また読者自身)の目には、「生活らしい生活」を送っている幸福なカップルに見える。≪日常に見える深淵≫をさりげなく描いたということで、この作品の評価が定まったが、見る人と見える物とが、あやうい均衡を保って配置されることで、その位相が一層明らかに提示されている。その点では、一聯の夫婦小説が、技法としてもここで一応完成されたように見える。」

阪田寛夫「庄野潤三ノート」より(1973年庄野潤三全集講談社)