ジュディス・バトラー
『ジェンダー・トラブル』

1999、青土社、初、カバー、帯、四六版、296P、竹村和子訳

00円 (在庫なし)

権力はいかに言説のかたちをとって身体・精神・欲望を形成するか。バトラーの代表作。
「ジェンダーの意味にまつわる現代のフェミニズムの議論は、たいていの場合、何らかのトラブルの感覚に行きついてしまう。ジェンダーの意味をひとつに決定できないことが、まるでフェミニズムの失敗だと言わんばかりである。だがトラブルを否定的ニュアンスだけで考える必要はないだろう。子供のころの言葉の感覚では、トラブルを起こすことはやってはならないことだった。そうすれば、トラブルを起こした人がトラブルの状態に陥ってしまうからである。反抗したら叱られるというのも、同じ構図で考えていたように思う。こうしたことを知って以来、わたしは権力の巧妙な策略というものに、批判的な目を向けるようになった。つまり現行の法は、ひとをトラブルから遠ざけようとして、そんなことをすればトラブルに巻き込まれるぞと脅し、さらには、その人をトラブルの状態に陥らせようとすることすらある。これから得た結論は、トラブルは避けえないものであり、だからやれることは、いかにうまくトラブルの状態になるかということだった。時がたつにつれて、わたしが批判を向けているこの状況に、さらなる曖昧さが存在していることを知った。気がついたことは、トラブルというのは本質的に謎めいた事柄―たいていの場合、女の事柄と思われている謎に関連する問題―を、婉曲に表したものだということである。わたしはボーボォワールを読み、男中心の文化のなかの女の存在は、男にとって、謎や理解不可能さの源であることを知った。そしてこのことは、サルトルを読んだときにさらに確実なものとなった。サルトルにとっては、欲望―疑わしいことに、異性的で男性的なものだと考えられている欲望―は、ことごとくトラブルとみなされているのである。欲望をもつ男の主体にとってトラブルがスキャンダルとなるのは、女という≪対象≫がどうしたわけかこちらのまなざしを見返したり、視線を逆転させたり、男の立場や権威に歯向かkたりし、それによって女という≪対象≫が男の領域に突然に侵入するとき、つまり予期しない行為体(エイジェンシー)となるときである。男の主体がじつは女という≪他者」に根本的に依存していることによって、男の自律性が幻想でしかないことが、突然にあばかれる。だがこの個別的な権力の弁証法的な逆転が、わたしの関心を引きつけたわけではない。むしろわたしの関心が向けられたのは、べつの事柄だった。それは、権力は主体同士の交換以上のもの、主体と≪他者≫との絶え間ない逆転以上のものであるらしいということだった。むしろ権力」は、ジェンダーについての思考の枠組みとなっている男女の二元論を産出するべく、機能しているように思えた。わたしが疑問に思ったのは、どんな権力の配置が、主体や≪他者≫や≪男≫≪女≫の二元関係や、これらの関係の内的安定さを構築しているかということだった。ここではたらいている制約とは何なのか。このような項目がトラブルを起こさないのは、ひとえにジェンダーと欲望を概念化している異性愛のマトリクスに、このような項目がしたがっているからではないか。そもそも認識論的に仮定されたものでしかない異性愛の体制が、じつは存在論の見せかけをとるカテゴリーを生産し物象化しているという事実が明らかになれば、そのとき、主体とか、ジェンダー・カテゴリーの安定といったものに、何が起こってくるのか。」