人文科学

中村雄二郎
『悪の哲学ノート』

1994、岩波書店、初、カバー、帯、四六版、347P
1,500円

哲学は、現実としての≪悪≫の問題にどのように迫り得るのか。 「・・・どうして悪は、あるべからざるものでありながら、そこにある種の魅力があるのだろうか。その点を避けるとき、≪悪≫の問題を扱ったことにならないだろう。およそ、暴力や破壊に対するひそかな快感や隠れた欲望は、われわれ人間にとって決して偶然的なものでなく、人間の本能的自然のうちに深く根ざしている。さらにいえば、根源的な自然がわれわれ人間に破壊をすすめ、≪悪≫を促すのである。 これまで、哲学や倫理学においては≪悪≫の問題がうまくとらえられず、宗教や芸術においては、突っ込んで扱われたのは、いったいなぜだろうか。おそらく、宗 »続きを読む

E. H. ノーマン
『クリオの顔』

1956、岩波書店、初、全体に少経年シミ、新書版、230P、大窪愿二訳
00円 (在庫なし)

歴史の女神(ミューズ)であるクリオに託し、人間性を深める学問としての歴史に関するハーバート・ノーマンの随筆・講演集。「・・・歴史にはいったい主流とか統一的テーマというものがあるのか、という人があるかもしれない。そこで私は、正しい遠近法―というのは遠い背景をいうことが多いのだが―から見るならば、歴史の中心問題は、民族の場合でも国家の場合でも、変化の性格を発見し説明することであると、大胆ながら答えたい。変化というのは、文明の勃興であり没落である。都市の発展であり荒廃である。一つの社会組織については階級の変化である。制度についてはその形式ばかりでなく内容の変化である。また一時代の »続きを読む

ロラン・バルト
『テクストの快楽』

1977、みすず書房、初、カバー(少汚れ)、四六版、160P
1,500円

テクストと快楽・悦楽との関係をアフォリズムのような断章で論じた書。 「≪文≫は階級的である。支配がり、従属があり、内的制辞がある。こうして、完結に到る。どうして階級性が開かれたままであることができようか。≪文≫は完結する。それは正に完結した言語活動でさえある。この点で、理論と実践は非常に食い違う。文は権利上無限である(無限に触媒化し得る)と、理論(チョムスキー)はいう。しかし、実践は常に文を終えることを強制する。≪イデオロギー的活動はすべて、構成上、完結された言表の形で現われる。」ジュリア・クリステヴァのこの命題を裏返してみよう。すなわち、完結された言表はすべてイデオロギー »続きを読む

ロラン・バルト
『表徴の帝国』

1974、新潮社、初、函、宗左近訳
00円 (在庫なし)

「わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、≪いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である≫という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。毎日毎日、鉄砲玉のように急速に精力的ですばやい運転で、タクシーはこの円環を迂回している。この円の低い頂点、不可視の可視的な形、これは神聖なる≪無≫をかくしている。現代の最も強力な二大都市の一つであるこの首都は、城壁と濠水と屋根と樹木との不透明な環の »続きを読む

ダニエル・バレンボイム/エドワード・W・サイード
『音楽と社会』

2004、みすず書房、初、カバー、帯、アラ・グゼミリアン編、四六版、259P、中野真紀子訳
00円 (在庫なし)

つねに境界をまたいで移動し続ける二人が、グローバリズムと土地、アイデンティティの問題、フルトヴェングラー、ワーグナーなどを議論の材料に、自分たちの相似したところと相反したところを語りつくす。 「グゼミリアン:アット・ホーム(家にいる・くつろいでいる)と感じるのはどこだろう。あるいは、そもそもアット・ホームという感覚をもつことがあるのだろうか。それとも、自分は一生移動しつづけると感じるのだろうか。 バレンボイム:使い古され、濫用された決まり文句ではあるけれど、≪音楽ができれば、どこでもわが家≫というのは、ほんとうだ。・・・僕がどこかで自分の家にいるような気分になるとすれば、じ »続きを読む