人文科学

バージェン・エヴァンス
『ナンセンスの博物誌』

1961,毎日新聞社、カバー、帯(少焼け)、真鍋博装丁、原田敬一訳、204P、訳者献呈署名
2,000円

人間とはなんと愚劣なことを信じ込む生きものでしょうか。これはアメリカの物知り博士が二十世紀の迷信と伝説に投じた軽妙にして皮肉な挑戦状です。(帯文より) 「・・・農民戦争以来、真の民主主義運動はすべて反宗教的だという刻印を押されてきた。一つはこれはそういう人たちを恥ずかしめる企てだったが、また一つには、民主主義とは本質的に反権威主義であることがわかっていたからだ。すなわち民主主義は、われわれが自分で物を考える権利を要求するだけでなく、その責任を与えるのだ。そして迷信は思索の敵である。理に合わない結論を拒否するということは、正直な人間の宗教の一要素である。そういう人にとっては盲 »続きを読む

遠藤周作
『青い小さな葡萄』

1965、新潮社、初、カバー(少焼け)、帯(少焼け)、蔵書印あり、四六版、198P
00円 (在庫なし)

遠藤文学の初期世界にみられる西欧と日本との間の人種差別に起因するテーマを扱った長編小説。 「”・・・憐憫はたくさんです。そっとしといて下さい。ぼくらを探さないで下さい。 ムッシュウ・イアラ、君のノートの中にもそんな言葉がたくさん書いてありましたね。無記名の人間になりたい。カメラの位置をどこにも固定したくないですか。・・・なるほど、あれは黄色人でも白人でもない一人の人間になりたい君の気持ちでしょうね。笑いながらクロスヴスキーはその顔を近づけてきた。” 『青い小さな葡萄』はキリスト教の真実を真向うから問いつめようとした作品なのかもしれない。そもそも≪青い小さな葡萄≫とは何だろう »続きを読む

ミルチャ・エリアーデ
『聖と俗:宗教的なものの本質について』

1969、法政大学出版会、初、カバー、帯(少焼け)、小口少汚れ、風間敏夫訳、四六版、258P
2,000円

聖と俗なる世界の対比により宗教的人間のあり方を明らかにするエリアーデの代表的な書。 「古代社会の人間は、聖なるもののなかで、あるいは浄められた事物のすぐそばで生活しようと努める。この傾向はもっともなこととして理解される、というのも≪原始人≫およびすべて前近代的社会にとって、聖なるものは実有に充ちている。聖なる力は実在と永遠性と造成力とを同時に意味する。聖と俗との対照はしばしば現実と非現実あるいは偽の現実との対照として現れる。存在し、実在にあやかり、力に充ち満ちてあることを、宗教的人間が熱望する所以もこの故に理解される。」(序言より)

『大きな顔:小野二郎の人と仕事』

1983、初、非売品、全体に少汚れ、197P
5,000円

弘文堂編集者、晶文堂共同設立を経、明治大学で教鞭をとったウィリアム・モリス研究で知られる小野二郎の人と仕事について、1982年の氏の没後に刊行されたもの。寄稿者に、長田弘、大岡信、寺田透、鈴木博之、鶴見俊輔など。 「小野二郎について この人に私は会ったことがない。しかし、この人に心をひかれた。 世の中の流れがかわって、敗戦直後のように民間の運動をになっているのがはやらなくなってからも、この人は大学教授であるとともに、新日本文学会の世話人であり、また晶文社という出発当時は小さい出版社だったところの相談役をしていたからだ。こういう役割を、つづけてになっている人がいるということが »続きを読む

小川和夫
『ニュー・クリティシズム』

1959年、弘文堂、初、カバー(少痛み)、旧所蔵者名、購入日及び印あり、四六版、装丁:井原道夫 151P
1,000円

「<ニュー・クリティシズム>New Criticism・・・次のような点がその共通の主張であるということができよう。 文学作品を、その作者の時代環境から説明することは、批評ではなくて、歴史にすぎない。 同様に、作品を作者の伝記的事実や心理から説明することは、批評でなくて、生理学乃至心理学的研究にすぎない。 逆に、作品を或る時代のドキュメントとして取扱うことも、歴史に属することであって、文学批評ではない。 文学批評は、作品を作品として論ずるものでなければならぬ。それは、作品の構成を論ずるものであり、本文の言葉に密着したものでなければならない。・・・」 こういう<新批評家>の主 »続きを読む