人文科学

ミルチャ・エリアーデ
『聖と俗:宗教的なものの本質について』

1969、法政大学出版会、初、カバー、帯(少焼け)、小口少汚れ、風間敏夫訳、四六版、258P
2,000円

聖と俗なる世界の対比により宗教的人間のあり方を明らかにするエリアーデの代表的な書。 「古代社会の人間は、聖なるもののなかで、あるいは浄められた事物のすぐそばで生活しようと努める。この傾向はもっともなこととして理解される、というのも≪原始人≫およびすべて前近代的社会にとって、聖なるものは実有に充ちている。聖なる力は実在と永遠性と造成力とを同時に意味する。聖と俗との対照はしばしば現実と非現実あるいは偽の現実との対照として現れる。存在し、実在にあやかり、力に充ち満ちてあることを、宗教的人間が熱望する所以もこの故に理解される。」(序言より)

小川和夫
『ニュー・クリティシズム』

1959年、弘文堂、初、カバー(少痛み)、旧所蔵者名、購入日及び印あり、四六版、装丁:井原道夫 151P
1,000円

「<ニュー・クリティシズム>New Criticism・・・次のような点がその共通の主張であるということができよう。 文学作品を、その作者の時代環境から説明することは、批評ではなくて、歴史にすぎない。 同様に、作品を作者の伝記的事実や心理から説明することは、批評でなくて、生理学乃至心理学的研究にすぎない。 逆に、作品を或る時代のドキュメントとして取扱うことも、歴史に属することであって、文学批評ではない。 文学批評は、作品を作品として論ずるものでなければならぬ。それは、作品の構成を論ずるものであり、本文の言葉に密着したものでなければならない。・・・」 こういう<新批評家>の主 »続きを読む

岡本太郎
『アヴァンギャルド芸術』

1950、美術出版社 初、函(少よごれ、焼け)、200x210変形判、127P
12,000円

”この書を希望と信頼をもって若き日本の藝術家に捧ぐ”岡本太郎のマニフェスト。 「アヴァンギャルド藝術は、もはや是非の問題ではない。ここを通らずに明日の藝術はあり得ない。回避せず、この偉大な二十世紀の業績を乗り越える。それこそ眞の藝術創造であり、これからのアヴァンギャルドである。足踏みは、瞬時も許されない。尖端的課題に正面から挑み、革命的に飛躍しなければならない。・・・ ・・・時代時代の表現があるのです。どんなにダ・ヴィンチやアングルが立派でも、二十世紀の今日、それと同じような画を描いては、いくら巧みに出来ても意味がないことはお解りでしょう。今日には、今日の問題に対応した絵画 »続きを読む

荻野恒一
『現存在分析』

1969、紀伊国屋書店、初、帯(少切れ)、新書版、202P
1,000円

現象学的方法で病者の志向性を捉える現存在分析とは?。 「現存在分析とは、人間についての学問の一つである。しかもこれは、一つの経験科学であって、哲学ではない。だが他方、経験科学とは、かならずしも自然科学を意味しない。いな、むしろ現存在分析は、自然科学に対応するような別種の経験科学である。 ではなぜ二十世紀の今日、自然科学と別種の経験科学が必要なのか。それは、人間には自然科学が解いてくれない側面があり、しかもこの側面を科学的に解明していくことは、今日きわめて現実的な課題だからである。 とすると、自然科学が解明してくれない人間の側面とはなにか。それは、人間だけに具わっている側面な »続きを読む

編集:小尾俊人
『回想・北野民夫』

1989、みすず書房、初、函(少キズ)、非売品、四六版、144P
4,000円

みすず書房創業に特別な役割を果たした北野民夫に捧げられた追悼集。 「“葱汁うまし逸話を持たで五十路過ぐ”の一句が故人にある。逸話なき人生を自覚していたこと、自己の人生を突き放してこう詠める人は達観しきっている。そして底に孤独に徹する凄さを秘めていなくては、この句は生れない。そもそも逸話とは他人の創作だ。第一逸話がつくられたも許される人は、ミケランジェロ、ベートーヴェン、アインシュタイン等々、一世紀に四、五人ぐらいしかいないのである。 ≪生涯現役≫≪企業戦士の壮烈な死≫と、よく言われた言葉があったが、北野民夫の七五年の生涯は、まさにこの言葉そのままであった。倉庫業、出版業、法 »続きを読む