古書&アート作品

子安宣邦
『≪宣長問題≫とは何か』

1995、青土社、初、カバー、帯、小口に少しみ、四六版、249P
1,000円

著者が10年来行ってきた江戸思想への新たな方法的視点の構築をめぐる問題提起。 「・・・≪宣長問題≫とは、あえて簡潔にいってしまえば、ほかならぬ近代日本において自己(日本)言及的言説として強力に、たえず再生する宣長の国学的言説の問題である。・・・≪日本≫の自己同一性にかかわる形で日本人が自らに言及するとき、そこには常に宣長がいる。宣長の国学的言説は、≪日本≫の自己同一性にかかわってなされる日本人の自己言及的な言説としてたえず近代日本に再生する。宣長の畢生の大業として称賛される『古事記伝』とは、古事記注釈を通して≪日本≫という内部、あるいは≪日本人≫という同一性を形成する作業で »続きを読む

マーティン・ジェイ
『アドルノ』

1987、岩波書店、初、カバー(背少やけ)
1,000円

フランクフルト学派研究の第一人者によるアドルノ論。 「今やわれわれの前に現われ出たアドルノの知的経歴の≪力の場≫は、こうして西欧マルクス主義の生産的エネルギー、芸術的モダニズム、マンダリン的な文化的絶望、ユダヤ人としての自己同定、そしてさらに、脱構築主義のどちらかといえば先取り的な引力、とを含んでいることになろう。たしかにアドルノが、時によってまた気分によって、この五つの力のいずれかにより強く引きつけられるということはあったであろうが、彼の仕事の全体は、これらの力のすべてのあいだの不安定な緊張関係を見るとき、もっともうまくとらえられることになろう。・・・したがって、アドルノ »続きを読む

ガヤトリ・C・スピヴァク
『サバルタンは語ることができるか』

1998、みすず書房、初、カバー、帯、上村忠男訳、四六版、145P
2,000円

従属的地位にあるサバルタンの女性について語ることの可能性を論じた現代思想の傑作とされるスピヴァクの代表的な著書。 「この論文では、ことがらの性質からして必然的に迂回路をとって、まずは西洋において主体を問題化しようとしてなされているさまざまな努力についての一つの批判から始め、つぎに第三世界の主体が西洋の言説のなかでどのように表象されているかという問いへ進んでいくことになる。その過程で、主体のさらにいっそうラディカルな脱中心化にむけての可能性は、実際にはマルクスとデリダのうちに潜在しているのだということを示唆する機会をもつことになるだろう。また、ことによると驚かれる向きもあるか »続きを読む

エドワード・W・サイード
『イスラム報道:ニュースはいかにつくられるか』

1986、みすず書房、初、カバー(少焼け)、四六版、220P、浅井信雄・佐藤成文訳
1,000円

イスラム報道にみられる負の表象に≪オリエンタリズム≫としての知と権力の構造を見るサイードによる問題提起の書。 「オスカー・ワイルドは、冷笑家について、あらゆるものの値段を知っているのに価値を知らない人と、定義しているが、私もそう思われないように、最後に付け加えておくべきことがある。私も知識の豊かな専門家の意見の必要性を認めること、大国としてのアメリカは外部世界に対して中小国家とは異なる態度や政策をもつこと、目下の憂慮すべき状況がよくなる望みは大いにあること、である。にもかかわらず、多くの専門家、政策立案者、一般の知識人ほどには、私は≪イスラム≫の概念を強くは信用しない。反対 »続きを読む

スーザン・ソンタグ
『写真論』

1979、晶文社、初、カバー、帯、四六版、221P、近藤耕一訳
1,500円

≪現実と想像力の交差≫としてのソンタグによる写真論。 「写真の眼が洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、なにを目撃する権利があるかについての観念を変えたり、拡げたりしている。写真はひとつの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理であるということだ。そして最後に、写真の企図のもっとも雄大な成果は、私たちが全世界を映像のアンソロジーとして頭の中に入れられるという感覚をもつようになったということである。」