人文科学

マルセル・ブリヨン
『幻想芸術』

1968、紀伊国屋書店 初、カバー(少汚れ)、小口(少シミ)、菊判、496P、坂崎乙郎訳
1,500円

芸術における幻想的なものを考える上での必読書。 「幻想という主題は、外的なフォルムや創造的な着想などで固定されない柔軟性を備えている。それゆえ、誰もこの主題を完全に探りつくそうなどといった錯覚や先入観をもつことはできまい。とくに現代芸術はシュールレアリズムのおかげで、幻想に着目すべき地位を与えたのだし、いわゆる伝統的な芸術よりもいっそう複雑かつ多様な意味をふくむさまざまな造形を経て、幻想を絶え間なく変えてきたのである。だからこそ今日では、あらゆる国ぐにに“古典的な”幻想と呼ばれるものとはまったく別種の幻想―まさに生成の過程にある幻想が存在することになろう。幻想は決定的に評価 »続きを読む

ノーマ・フィールド
『天皇の逝く国で』

1994、みすず書房、初、カバー、帯、四六版、351P、大島かおり訳
1,500円

1988-89年、故昭和天皇の病いと死の時期のあいだの、日本人の行動様式と心性、そこに顕在化したさまざまな問題を考察した書。 「日本の天皇ヒロヒト、追号、昭和天皇は、一九八八年九月十九日、病にたおれ、翌八九年一月七日に逝去した。国葬は、国外から世界史上のいかなる葬儀をも明らかに上まわる数の貴顕参列者を迎えて、二月二四日にとりおこなわれた。この間の五か月半を、おおかたの日本人は重く張りつめた特異な雰囲気の中で過ごした。この国が経済繁栄によって変貌を遂げて以来、このときはじめて、第二次世界大戦とその負の遺産を省みる試みがなされ、とりわけ、被害者としてだけでなく加害者としての日本 »続きを読む

ミッシェル・フーコー
『外の思考』

1978、朝日出版社、初、カバー、帯(少背焼け)、新書版、140P、豊崎光一訳
1,000円

ミッシェル・フーコーによる文学批評(ブランショ、バタイユ、クロソウスキー)。 「今やわれわれは、長いあいだわれわれにとって目に見えないものだった空洞を前にしている―言語の実体(エートル)がそれ自体に対して姿を現わすのは、主体の消滅のうちにおいてのみなのだ。どうやって、この異様な関係への手がかりをつかめばよいのか。たぶんそれは、西欧文化がその余白の部分において、まだおぼつかないその可能性を素描してきた、思考の一形態によってである。あらゆる主体=主権性の外に身を保って、いわば外側から諸限界を露呈させ、その終末を告げ、その拡散を煌めかせ、その克服しがたい不在のみをとっておく、そん »続きを読む

ミッシェル・フーコー
『臨床医学の誕生』

1969、みすず書房、初、カバー、菊判、316P、神谷美恵子訳
2,500円

「臨床医学的経験とは、西洋の歴史の上で、具体的な個体が、初めて合理的な言語にむかって開かれたことを意味するのであって、人間対自己、及びことば対もの、という関係における重要な事件である。・・・ここで企てられた研究は、したがって、指示を与える意図はまったくなく、現代の医学的経験を可能ならしめた諸条件をはっきりさせ、批判的であろうとする意図的な計画を意味する。・・・他の場合と同様に、ここでも問題は、一つの構造論的研究なのである。この種の研究は、歴史的なものの厚みの中で、歴史自体の諸条件を解読しようと試みるものである。人間の思考のなかで重要なのは、彼らが考えたことよりも、むしろ彼ら »続きを読む

マルティン・ブーバー
『我と汝・対話』

1978、みすず書房、初、カバー、三方経年少焼け
1,500円

「世界は人間にとっては、人間の二重の態度に応じて二重である。人間の態度は、人間が語り得る根元語が二つであることに応じて二重である。この根元語とは、単一語ではなく対偶語である。根元語のうちのひとつは対偶語・我―汝である。もうひとつの根元語は対偶語・我―それであり、この場合には、それを彼あるいは彼女のいずれかで置きかえても、その意味するところには変りがない。このように根元語が二つあるからには、人間の我もまた二重である。なぜなら、根元語・我―汝における我は、根元語・我―それにおける我とは異なっているからである。」