人文科学

堀田善衛
『廣場の孤独』

1952、中央公論社、重、カバー、帯(少焼け)
00円 (在庫なし)

「“Stranger in Town”・・・ ・・・任意のstrangerを主人公にして《小説》を書いてみたらどうか。この任意の人物が、周囲の交叉し対立する現実に対応しつつおのれの立場を選ぶ。様々な事件や事故に接して選ばれたその立場位置が、今度は逆に、いはば対角線的に、この人物の位置を決定してゆく。つまり電波探知機が、電波を交叉させて飛行機の位置を測定するやうに、位置が決定すれば、それまで任意の飛行機であったものが、その位置にある或る特定の飛行機になるやうに、この人物は位置決定によって、任意の人物から特定の人物になる。そこまでを先づ描く。 世に任意の人物、臨時にちょっと雇っ »続きを読む

ジャン・ボードリヤール&ジャン・ヌーベル
『建築と哲学』

2005、鹿島出版会、初、カバー、帯、四六版、181P、塚原史訳
00円 (在庫なし)

現代フランスを代表する知性の特異な出会いとダイアローグ。「JB:ラディカルということ(過激であると同時に根源的であること)を、私はこれまで建築の領域よりは記述(エクリチュール)や理論の領域で構想してきたが、今では空間がラディカルであることに心惹かれている。・・・もっとも、真にラディカルなのは、おそらく無なのだから、空白こそは真にラディカルな空間ではないだろうか。・・・私がジャン・ヌーベェルにたずねたい質問は、ごく単純なものだ。・・・≪建築にとって真実は存在するだろうか?≫建築にとっての真実とは、ある種の現実のことではない。つまり、建築とはもろもろの基準や目的や用途、様式や手 »続きを読む

ジャン・ボードリヤール
『物の体系』

1980、法政大学出版局、初、カバー、帯、四六版、264P、宇波彰訳
00円 (在庫なし)

≪物から記号へ≫という思考を展開させたボードリャールの最初の著作。 「消費は、物質にかかわる行動ではなく、≪豊富さ≫の現象学でもない。それは食料品によっても、衣服によっても、自動車によっても、イメージとメッセージという、口で伝えたり目で見える実体によっても定義されるものでもなく、そういうもののすべてを意味作用を持つ実体に組織することとして定義される。消費は、今や多かれ少なかれ整合的な言説として構成されている。すべての物・メッセージの潜在的な全体である。消費は、それがひとつの意味を持つ限りにおいては、記号の体系的操作の活動である。」

堀田善衛
『インドで考えたこと』

1957、岩波書店、帯(背少焼け)、本体少時代しみ、初、新書版、210P
1,000円

1956年秋第一回アジア作家会議に出席するため著者がインドに滞在した際、感じ考えた≪思想≫旅行記。 「・・・日本と西欧、このユーラシア大陸の極東にある島と、極西にある半島。そのまんなかにある広大で大々的なるモノ。文化文明における古代史上代的な秩序というところでは、われわれの祖先は、この大々的なモノに学んで、それを取り入れた。ヒマラヤの向こうの山の方から、三蔵法師がひょっくりと出て来るような気がする。遣唐使たちが、そのまた向うの方でウロウロしているように思う。ところが、文化文明における近代史現代史的秩序においては、われわれ日本人は、この広大なる地域を、たとえば腰にぶらさがって »続きを読む

構成:松田行正
『眼球譚/月球譚』

1992、牛若丸、初、カバー(縁少焼け)、限定200部、非売品、見返しに覚書小さく書込みあり、B6版、160P
00円 (在庫なし)

「眼に執着するのは精神分裂病者の特徴のひとつだとよく言われる。彼らは他者の視線を異常に気にして、不安や恐れを抱きながら同じ表現を繰り返しおこなう。私も赤面恐怖症ぎみで、他人の視線がどっと押し寄せてくる気がすることがある。そこで思いきり眼に執着して絵画の中の女性の左眼ばかりを集めてみました。19世紀中葉に写真が一般化して以来絵画は従来の毅然たる態度は維持できなくなっていった。クールベやマネの写真的リアリズム絵画に批判は集中し、ポール・ヴァレリーにして≪生のままの真実は虚偽以上に虚偽」と言わしめた消息が席巻していた。そこに抽象表現も加わって、恐らく人類の美術史上一番おもしろい世 »続きを読む