人文科学

木田元
『現代哲学』

1969、日本放送出版協会、初、カバー(少汚れ)、B6版、帯、204P
1,000円

フッサール、メルロ=ポンティ、サルトル、レヴィ=ストロースなどの論理を辿り、現代哲学の中心的課題を明白にする。 「・・・ヘーゲルにせよ、マルクスにせよ、それぞれの流儀で当代の政治や科学や芸術などとの対話を試み、そのなかから自己の哲学を作り上げてきているわけである。メルロ=ポンティ自身もあるところで、哲学というのは≪どこにもありどこにもない≫(partout et nulle part)ものだ言っているが、たしかに哲学というものは知のどの領域にでもあるが、といって哲学に固有の領域などというものはどこにもないもののようである。むしろこういうふうに、当代の政治や科学や文化の諸領域 »続きを読む

アントニオ・グラムシ
『知識人と権力』

1999年、みすず書房、初、カバー、帯、四六版、177P、上村忠男編訳


1,500円

知識人とは?、サバルタンとは?、地政学考察とか?、グラムシの論考。 「従属的社会集団の歴史(storia dei gruppi social subaltern)は、必然的に、断片化された、そしてエピソード的なものであらざるをえない。これらの社会集団が歴史のなかで展開する活動にも、たとえ暫定的な水準においてのものであるにしても、統合へと向かおうとする傾向が存在していることは疑いないが、この傾向は支配的社会集団の発動するイニシアティブによってたえず粉砕される。したがって、歴史がそのサイクルを、それも成功裡に閉じたとき、そのときになってようやく、そうした傾向が存在したことが証明 »続きを読む

黒岩重吾
『背徳のメス』

1960年、中央公論社、初、函(少痛み)、直木賞、四六版、P241
00円 (在庫なし)

「・・・それにしても、人間の愛には、このような執着もあったのか。植は、真理子に対する己れの愛情を、静かに見詰めることができそうな気がした。裏切られたからといって、何も言わずに家を捨て、やくざな生活に流されながら、過去を恨むような女々しい男に、本当の愛が燃えるはずはなかったのだ。本当の愛とは執着ではないか。植はふと伊津子のことを思った。が、今の彼は、廃人の夫から妻を奪ってしまうほどの執着を伊津子に抱いてはいない。植は、ひどい疲労を覚えた。ふと、都会の泥のような人間関係の、わずらわしさから脱したい気がした。故郷の岩手富士の秀峰が、とぼとぼ歩む彼の脳裡をよこぎった。」 「・・・こ »続きを読む

オティス・ケーリ
『日本の若い者』

1950、日比谷出版社、カバー(背焼け)、本体全体に経年焼け、装丁:向井潤吉、
巻頭の著者近影写真、306P

3,000円

同志社大学で宣教師として滞在した、オティス・ケーリによる戦争体験記。 「・・・私はこのごろ、デモクラシーという言葉を出来るだけ使わないようにしている。というのは、連中と話していると“それは何デモクラシーのことですか”などと、よくいわれる。また、ある男は“デモクラシーという言葉を使うと、アメリカにおべっかを使っているみたいでいやだ”という。 そういう厄介な言葉は使わない方がいいと思っている。それに、この言葉は、戦後の日本で、心ない人たちに、すっかり汚されてしまった。“デモクラシーのために・・・”“民主日本のために・・・”と、戦時中の“大東亜共栄圏のために・・・”と同じように、 »続きを読む

ル・コルビュジェ
『伽藍が白かったとき』

1957、岩波書店、初、帯(背焼け、少イタミ)、本体少焼け、経年シミ、A5版、305P、生田勉訳
1,500円

前衛精神による機械時代文明に対する批判の書。 「・・・ある夏の真昼のことであった。私は、パリのあのえも言われぬ青空の下、セーヌ河の左岸をエッフェル塔に向って全速力で車を走らせていた。一瞬、私の目は青空の中の白い一点に惹きつけられた。それはシャイョ宮の新しい鐘楼であった。私は、ブレーキをかけて眺めたのであったが、突如として時の深みに引きこまれた。そうだ、中世伽藍はかつて白かったのだ。真白で眩く、そして若かったのだ。 ・・・ところで今日は、そうだ!今日も同じく若くて新鮮だ。今日も同じく新しい世界の始まる時なのだ。・・・私はアメリカから帰って来たばかりであった。よろしい、アメリカ »続きを読む